書 × 葦手 ―― 和様化の先に生まれた「文字遊び」
日本の書は、もともと中国から伝わったものだった。
飛鳥時代、聖徳太子が書いたと伝わる『法華義疏』は、まだ中国・六朝期の書風そのままの字形をしている。仏教の伝来とともに経典が入り、それを手本に書法を学ぶ――これが書の出発点だった。奈良時代に入っても、写経所で盛んに書かれた『大般若経』などは、依然として中国書法の枠の中にある。
転機が訪れるのは、遣唐使が廃止された平安中期。和歌の発展とともに、書もまた「和様」という独自のスタイルを獲得していく。その立役者とされるのが小野道風だ。能書たちの手による書は、単なる文字ではなく、料紙や箱まで含めた総合芸術として儀式や贈答の場で珍重された。時を同じくして、末法思想を背景に貴族たちが発願した装飾経も数多く生まれる。平清盛が一門の繁栄を願って納めた『平家納経』はその代表格で、金泥や色替わりの文字が用いられ、もはや写経というより「和歌の調度品」と呼びたくなるような華やかさをまとっている。
この「書の和様化」と並行して、もうひとつ面白い現象が起きていた。「葦手(あしで)」である。
葦手とは、文字を絵の中に溶け込ませるように配置する装飾書法で、その言葉自体は平安初期の歌合の記録にすでに見える。平安後期になると、『西本願寺本三十六人家集』や『久能寺経』などに具体的な字体として姿を現し、そこには型のようなパターンの共通性があったことも確認できる。
決定打となるのが、藤原伊行の手によるとされる『葦手朗詠集』(1160)だ。
全巻に葦手絵が下絵として施されたこの作品では、従来「わ」の文字に見立てられていた車輪の絵が、複数個まとめて描かれながらも、もはや文字としては読めない形になっている。つまりここでは、葦手は文字であることをやめ、純粋な意匠(デザイン)として扱われている。
書が和様化しながら装飾性を高めていった時期と、葦手が文字から意匠へと変化していった時期は重なる。
ここから見えてくるのは、「書の和様化」と「文字の意匠化」がまったく別々の現象ではなく、互いに影響し合いながら育っていった、ひとつの文化的な流れだったのではないか、という仮説である。
参考文献
島谷弘幸『日本の美術No.519 和様の書』、ぎょうせい、2009年
江上綏『日本の美術3 葦手絵とその周辺』、至文堂、2006年
